さて。猫ロストの後先。
亡骸が返された後、一応付き添ってくれる人もいましたのでさほど取り乱さず済みましたが、それでも平常時にはそんなつもりもなかった猫火葬を動物霊園にお願いしてあまつさえお骨を手元に残すコースを選択したりして(選択コースによって料金がじわじわプラスされる例のやつです)、あんまり平常心だったとは言えない。
そんでもってお金をおろしに丸栄に来たつもりが三越だったり、そして「あれ、三越来ちゃった」ではなく「丸栄の地下、変わったなー」と思ったり、ちょこちょこボケた。
家に戻ってからはジッとしてると泣くので片付けを始めて、これが捗る捗る、なんかよくわからん衝動で捨てが進み、粗大ゴミはドライバーでバラして素手でへし折り、長いこと片付かなかったあちこちが片付くのなんの。
翌、日曜はよく晴れた、名古屋はマラソンの日。
昼下がりにお寺まで猫の骨を引き取りに行った。
普通電車しか止まらない名鉄の駅の周辺は古い街道っぽく、さびれてひなびて、春の散歩がよく似合い、動物霊園の周りは野良猫だのリード着けた散歩猫だのお散歩やお参りのお供のわんこだのがいっぱい、歩くたびになんとなく気が軽くなって、お寺さんで骨壷に納まったお骨を見せてもらい、ああこの小さい三角頭は確かにねねさんの頭だ、これは寝るとキバチラしてた牙だ、と思ったら、なんだか急に納得がいったというか、猫の死に対して気持ちが落ち着いた。ニンゲンのオソーシキの式次第が身に染みついているのかもしれない、お骨になると、ちょっとなんか浄化というか昇華したような気がする。あいまいな死生観、ふわふわな宗教観。
欧米の人なんかが亡くなったペットを剥製にしてるのを見ると、どーも違和感の方が先にたつ、あの感覚はやっぱり火葬に慣れ親しんでいるからかなあ、剥製ってなんか残酷な感じがするんだけど向こうからしたらきっと焼いて骨にしちゃう方が残酷に感じるだろうね。剥製なら美しい毛並みもしなやかな肢体もキープできるのに、何故焼く?って訊かれたら説明できない。あいまいで強固な宗教観。
死んだものはここには居ない、居ないのが死というものなのだ、と、理性では思っている。でも亡骸は亡骸でそれなりに丁重に葬ってほしいと思ったり、お骨にいちご(好物)お供えしてあれやこれやと話しかけたり、うーん、なんだろうこれって。ねねさんの存在の代理、みたいなもんなんだと思う。自分の見知ってる仏教的な習慣とオママゴト的なものが一体になった感じ。
まあほんとに、宗教的儀式ってのは生きてるもんの気を落ち着かせるようになってるんだな。
こうやって段々に馴れていくんだと思う。
ペットロスにはならんような気がする。