先日の野鳩とナカゴー、『ひとつになれた』を観ながら、猫ニャー最終公演『将来への不安Z-2000』を思い出したりしてた。
芝居の内容じゃなくてお客さんの反応に、だけど。人は、というか、サブカル小劇場系、笑いにきているお客さんて、悲惨、とか不幸、で笑うよなあって。自分も笑っちゃうんだけど、あの笑いってなんだろうな、どういう了解で成立する笑いかなって思うのね。例えば、ツッコミ替わりに笑っていい、という了解。「んなわきゃねえよ!」という笑い。
中森明夫が映画版『桐島、部活やめるってよ』を評して「この映画自体が青春映画に対する批評である」と書いていたっけ。もはや生徒たちはひとつになったりしない。
青春映画、学園ドラマのテンプレート。ある目的に向かって、人々が集まり、進み出し、途中克服困難と思える障害にぶち当たるけど力を合わせ乗り越えてみせる、一連の起承転結。
(「青春映画」と形容するけどワカモノ達が主人公とは限らない、『Shall we ダンス? 』はじめ中年男女の青春映画は枚挙に暇ない)。
『ひとつになれた』は演劇的なずらしかたはありながら、案外、青春ドラマの王道を踏襲している。
野鳩とナカゴーが出会って合同公演に向けて動き出し、本番を迎え、すこし行き詰まり、不慮の克服困難な障害に襲われ、しかし一丸となって克服し、舞台へ帰ってくる。
起部の「野鳩とナカゴーが出会って合同公演に向けて動き出す」部分は、この公演を観に来ている観客には既に周知済であるのでばっさり大胆にカットされて、本番前のウォーミングアップと小返しの場面で芝居が始まる。まとまらない稽古と気詰まりな演出家。そこで「なんだ内輪受けの"演劇あるある"なメタ芝居か…」と思うとさにあらず、それと悟られないくらい巧妙にクリシェをずらした青春演劇のはじまりなのだった。
本番前の苛立ち。モンスターの襲来。避難の道行き。都下脱出。下北沢への帰還。たった一人でも来てくれるかもしれないお客さんのために公演決行。文字通りの大団円。
ただしその演劇的なずらしかた、外しかたというところに批評的な目があるわけで(パロディの批評眼というやつ)、こうしてパーツを文字で書くと王道青春演劇でも、例えばメタな自己言及であったり、宇宙人という荒唐無稽さであったり、一丸になったかに見えて棄ておかれる演出家の下半身であったり、そういう種々のずらしが、この芝居が単に青春ドラマのコード進行をなぞったものではなく「等身大の書割」であることを知らせている…書割がお花畑から下北沢の演劇人に変わったのだ。演劇による演劇批評。演劇には「よりリアルらしさ」があるばかりでリアルなんかないよ、と。
なんてな。
一回限り有効の批評性を感じつつ、それで余計に猫ニャーを思い出したんだな。たぶん。