2013年1月11日金曜日

発語と共鳴

つらいとき、泣きたいときに会いたくなるひと


嬉しいとき、はしゃいでるときに会いたくなるひと


弱音や愚痴を聞いてほしいひと


笑い話や手柄を聞いてほしいひと


いやなこともいいことも全部みんな話したいひと


良いことだけ知っててほしいひと


いつでもそばにいたいひと


会えなくっても元気でいてくれればいいひと


 


大好きだったのに、お互い、しんどくて消えたいときしか電話しなかったひとは、


泣きそうな声ばかり聞いていたのではっちゃけて踊った姿が思い浮かばない。


元気で好調子のときにはメールもしなかった、お互い。


 


なんにも話さずに手をつないでいたいひと、手のひらから伝わる体温。


ヤメルときも、スコヤカなるときも会いたいひと。


「そう」だと思い、「うそ」だと思った。


 




 


言葉は観察者のための光だ。


その光に照らし出される前の、蒙昧で未秩序な衝動、わけのわからないパトス。共振させたいという衝動。


そこから言葉は零れてくる。


でも一番の源は言葉にならない、声もでない。


ロゴス以前の未分化のわけわからないものに突き動かされている。


(言語学者は「言語は本能だ」という。ほんとうだろうか。それなら文化だって本能だ。)


 


言葉は船であり海である。


言葉は自我の窓である。


言葉はわたしたちを内包している。


言葉は内破して「わたし」を崩壊させる。