2011年11月28日月曜日

言葉は海であり舟であることについて、覚書

やっとこ冬支度。


ホットカーペット登場。


 



 


音楽・坂本弘道とダンス・安藤鮎子のコラボレーション企画の打ち合わせの席に呼ばれて顔出す。


ええとわたしはこの企画で何を期待されとるんでしょうか。まあ、にぎやかしかな。


坂本さんの音楽人生やマルタ君との出会いなどのあゆみを聞く。ずいぶん前から知ってるのに、こういう話って案外初耳。


 


あとは映画の撮影で名古屋来てるイムジイ(撮影真っ最中)のケータイにイタ留守録したりとか。


 


夜半ハマジと牛島さん合流、スーツ着て銀縁眼鏡かけたハマジが笑えるくらい仮装状態、執事コスプレか?(似合ってるのでよけい可笑しい)(しかし歯無し)


 


さらに夜中なんかあって路上でハイキック寸止め披露、高さと寸止めっぷりをチェロリスト(チェリストではない)とハイジさんに感心されたり呆れられたり。10年に一度の身体技能を無駄な時に使ってます。もうやらない。


 


 


 



 


 


私たちはある国に住むのではない、ある国語に住むのだ、と言ったのはシオランでしたか、ハンガリー領になったりルーマニア領になったりの歴史で言語分布の入り組んだトランシルヴァニアに生まれてフランスに渡り、中期以降の著作はフランス語で書いた思想家。


あたしゃ幸い一つの国に生まれ育って一つの言語に安住しているので母国や母国語という概念をことさら意識することはないけれど。


こないだふっと思ったんだけど、教科書に載ってた文章とかね、小説でもエッセイでもいいんだけど、国語の教科書に載ってた日本語の文章ってけっこう今でも覚えてるの。やうやう白くなりゆく山際、とか、妙高山に日が沈むと空は真っ赤な夕焼けです、とか。


でも英語の教科書に載ってたやつって覚えてないのよ。日本語でぼんやり訳やあらすじを覚えてるのはあるけど、元の英文って出てこない。小説の一章とか童話とかエッセイとか小咄とか社会評論とかいろんな方面の文章が載ってたはずなんだけどね。


あ、いっこだけ覚えてた、"Let down your long hair"、ラプンツェルだな。


でもやっぱり物語そのものは日本語訳の状態で記憶されてるな。


こうゆうのってなんだろう。記憶の受容体?