2017年12月10日日曜日

ふたたび街のこと

なくなってしまった街のことを思う。
震災とかダムの底に沈んだとかそんな劇的なことではなく。
普通に都市の新陳代謝で消えていった店、家、アーケード、家並み、街並みのことだ。
まだ(意外と)記憶の中には生々しく残っていてふとしたはずみに錯誤する、大須のバス通りを思い描いた時にのんのんと木の実の看板が灯っていたり、大名古屋ビルヂングの地下と聞くと寂れかけ古びた地下街を思い描いたりする。ボルシチ風のシチューがご自慢の喫茶店のマスターの人懐っこい笑顔と蝶ネクタイ。
その場所はもうないのだということがなんとなくいつも腑に落ちなくて座りが悪い、頭ではわかっているけれど頭の中にはまだあるのだもの。
そしてそうして、頭の中のその場所もだんだんに薄れてゆく。子供の頃に繰り返し見た夢の中で行く街、その白っぽく舗装されたコンクリートの道もコンクリートに練りこまれたガラスの欠片のキラキラもひび割れから伸びたオオバコの芽も、白い息吐く後ろ姿も風の波々や光の粒々も、昔はもっとはっきり絵が思い出せたんだのに今は「そういう景色だった」という箇条書きの情報に縋って、なんかとにかくそんな絵だったのだと再構築して思い描く。自分が忘れてしまえばもうどこにもなくなってしまうのにそんな頼りなさだ。
そういえば子供の頃は、親や、年上の人が、「前はここは◯◯だったのよ」と無くなった街の案内をしてくれた、中には「昔はここに市電の停留所があったのよ、あんたは知らんでしょうけど」と、なんだか少し苛立たしい不機嫌な言い方をする人もあった、自分が責められているような気がしてたけど今にして思えばあれは確かにそこにあった街を共有できないもどかしさとか自分の中で薄れていってしまう記憶への焦燥感とかそんなものだったんじゃないかと思う。
共有できなかった街や薄れていく街をとどめて分け与える為にある人は文章に書き、或いは絵に描き、ジオラマを作り、なんとかその意中の景を形に残そうとする。想念の街です。なぜそんなに拘るのだろう。
それは自分が属する場所だからなのだと思う。取り壊された校舎も夢で通った古本屋も、私の中にあって私を包有している。インクルージョン、琥珀の中の虫に似た私があちらにいる。あの街の記憶がほんとうに無くなると私の足元まで薄れていくような、そんな気がするのだ。私の中の街の中の私が消えていく。

それも変だね。今ある街にこうして立っていて。消えていった街に棲む幽霊ではないのにね。