旅の栞用に調べて探して訳したのに没になった漢詩があるので供養に載せる。没になった理由は田岡さんの猛烈な反対による。えー。
伊勢河崎について調べるとあちこちのサイトに「頼山陽が伊勢旅行の折に漢詩に詠んだ」と書かれているのに、どこも肝心の当の詩が記載されていない、という。
たぶんどこかのサイトが最初に「頼山陽が〜」と書いて、みんながそれを引用・孫引きしたもんでその一文だけが拡散してどんな詩だったかは誰も知らない、みたいな事態かな。誰も聞いたことないご当地ソング。
そんじゃまってんで自力で調べる。幸い頼山陽は人気があるので比較的本が探しやすい。
頼山陽の漢詩選集に伊勢旅行の記があったので年代にアタリをつけて次に全集を繙く、こんなんデータベース化してればすぐに検索できるのにね、で、ようやっと河崎の句を探しだして口語訳したという経緯。
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勢田川沿いの町、河崎は伊勢の水上交通の要所であった。
江戸時代の文人・頼山陽が母を連れて伊勢詣に訪れた際、河崎から二見浦へ向かう様子を漢詩に詠んでいる。
五言律詩の響きに西暦1829年の晩春を思い浮かべられたい。
河碕。舟赴雙鑑浦。
(文政十二年三月二十八日)
春帆不嫌緩
舎轎就江灣
暖靄三河郡
斜陽兩勢山
此行從阿母
何處不郷關
到岸投村店
鮮魚酡醉顏
<読み下し>
河碕。舟にて雙鑑浦に赴く。
春帆(しゅんぱん)緩むを嫌わず
轎(きょう)を舎(お)き江灣に就(つ)く
暖靄(だんあい)は三河の郡へつづき
斜陽は兩勢山にかかる
此の行は阿母(あぼ)に從えば
何(いずれ)の處(ところ)か郷關(きょうかん)ならざらん
岸に到り村店(そんてん)に投せば
鮮魚は醉顏(すいがん)を酡(あか)らめん
雙鑑浦…二見浦。
轎…駕籠。乗り物。
舎…「やどる・やすむ・身をよせる」等の意味があるが、ここでは「おく・すえる・用いない」の意か。「あえて駕籠を利用せず舟旅を楽しんだ」と解釈できる。
江灣…伊勢湾。
就…おもむく。近づく。
暖靄…暖かいもや。靄には「なごやかな雰囲気」の意味もある。わきあいあい。
兩勢山…詳細不明。北勢・南勢の山々では夕陽がかかる範囲として広すぎると思われるが、天草灘の光景を「雲か山か呉か越か」と大胆に詠んだ山陽ならありえない誇張表現でもなさそう。あるいは外宮・内宮の杜を指すものか。
阿母…(親しみをこめて)お母さん。
郷關…ふるさと。
村店…いなかのはたご。ひなびた宿。
投す…逗留する。泊まる。
醉顏…酔い顔。
酡…赤らむ。飲酒により顔が赤くなるようす。
<おおざっぱな訳>
おだやかな春、風は凪いで舟の帆はゆるみがちである。
舟の進みはゆっくりだが、駕籠を使わずに水路で伊勢湾へ向かう。
あたたかいもやは伊勢湾をまたいで三河の国まで包み込み、
夕日は伊勢の二つの山に差しかかっている。
この一行はわが母に従って旅をしているので
どこへ行ってもそこがふるさとのようなものである。
二見の岸に着き、ひなびた宿に泊まれば
新鮮な魚で酒がすすんで酔った顔がますます赤くなるのだった。
頼山陽は安永9年12月27日(1781年1月21日)~天保3年9月23日(1832年10月16日)の文人、歴史家。
この詩は山陽50歳の時のもの。
『東海道中膝栗毛』の完結が文化11年(西暦1814年)であるので弥次喜多のお伊勢参りから15年ほど後の紀行である。
春といえば春一番なんぞも吹いて風は強そうなものだが、旧暦のため文政12年の3月28日はグレゴリオ暦の5月2日にあたる。季節的にはゴールデンウィークの光景ですね。
「此行從阿母」とあるとおり、この旅は山陽の母のほか「一家眷属したがえたので、よほど楽しいものだったらしく」と後世の研究者に書かれている。楽しい旅にあやかりたいと思います。