水辺におりました。
声を聞いた気がして振り返りざまに、水に包まれたようでした。
何が変わったわけでもありません。髪の毛いっぽん濡らしません。ただ、視界が奇妙に、水の中から見上げるそれなのです。水面いちめんに光が乱反射して、飛ぶ鳥の跡には同心円状の紋が広がりました。その向こうに太陽が高く小さく輝いています。
水辺を離れても続きました。駅の雑踏に紛れこんでも、踏切から鉄路を眺めても、まだ続きました。パンタグラフが波頭を切って進みます。
家では揺らぐ電灯の下でおなかの大きな妻がうたたねをしていました。
夕飯を食べながら、なんだか今日は目が変なんだ、ずっと水の中にいるみたいなんだ、と話しました。大丈夫なの?と顔を覗き込む妻に、水中眼鏡に変えた方がいいかもしれない、とおどけました。彼女が笑うとあぶくで顔が隠れるのがもどかしく思えて強く抱きしめました。おなかの子も一緒にです。
そのときはたしかに水の中の景色と思いました。
次の月には娘が生まれ、すくすくと大きくなり、這い、立ち、歩き、幼稚園、小学校、中学へと進み、早いものだ、どんどん日の経つのが早くなるね、と、いいえ、本当に、どんどん速くなっているのでした、人の動きは清流の鮎のようです、速すぎて透けて見えます、そのうちにただ軌跡だけが見えるようになりました。飛行機雲のような紋のどれが妻でどれが娘だったか、ついにわからなくなってしまいました。
街に出れば、いくつもの軌跡が川の流れのように見えます。
どうやら、わたしは、わたしだけが、あの流れからはじき出されてしまったようなのです。
人の流れだけでなく、街が、年経て、廃れて、更地になって、建て直して、また古びていくのを目の当たりにしました。それもどんどん速くなって、やはり街も、透けるような軌跡に見えます。キラキラときらめきながら流れていくようです。
しばらく、呆然と、その流れを眺めておりました。
仙境というのはこんなことでしょうか。
時の流れのほとりに佇んで、こうして見渡しましても、もう何が映るということもなく…靄でできたプレパラートのようなぺらぺらと薄いものが流れに沿っていくつも、いくつも過ぎてゆくくらいで、あとは茫々と渺々とした景色です。
今もこうして水辺におります。