2013年2月4日月曜日

Seesaw

わたしにはことばの思い出がない、ことばで思い出す思い出がない。あたまを振ると景色が出てくる。いつか見た風景。こわれたポラロイドカメラのようだ、という。年代もピントも消失点もバラバラの流し撮り写真。あたまを振る。


それを見て、あこれはセーターだ、と彼はいう。新品のセーター、その接写。抱き寄せて顔を埋めると新品の匂いがした。あれはなんだろう、どう言うんだろう、毛糸の匂いでもないし染料の匂いでもないし、クリーニング、そういう薬品の匂いでもないし、おろしたての匂いとしか言えない匂い、という。ことばで思い出す彼はずいぶん細かな意味まで覚えていて語ることができる、わたしにはできない。赤い、ざっくりとした網目のセーター、とだけ思い出す。


あたまを振る、と次は船の上の景色で、これはいつのだ、風が強くて、そして陽射しもきつくて、とても暑かった、帽子が飛ばされた、すぐ日に灼けた、と彼は言った。わたしも陽射しと日陰を覚えている。次は日灼け止めを持っていくといいねという。彼の思い出話には次が混じる。あのとき隣にいたのは誰ちゃんで、今は誰それの奥さんで、という。彼の思い出話には今が混じる。いつもそうだ。


もし彼が思い出してくれるのでなかったらわたしの頭からこぼれる景色には意味がないだろうか、続きがないだろうか。あたまを振るとピンぼけの足先、いくつも見た、立ち止まってうつむいたときの視界、これは今の景色だ。


昔の話をするのはいやですか、という。いやじゃないです。おもしろいです、と答える。でも泣いてます。泣いてません。いつも泣きます。泣いていません。


ことばも景色もなくなればいいです、とやぶれかぶれにわたしは答える。そうなんですか?という。うそです、と答える。


誰も見ていなかったようなこと、誰も記憶しなかったようなこと、そんな大量の切片にそれぞれエピソードがあってそれぞれ時間の流れがあって、気が遠くなる。だけどそれは何の不思議もないことなんだった。なんの不思議も。いつだってそうだ。知らない人々にもそれぞれ名前があるように、当たり前で、途方もない。


あたまを振る。古い景色。この頃は、今みたいになるとは思ってなかったね、という。そうだったかもしれない。彼は他人の顔をして少し離れたところに立っている。その後ろにはのどかな街並。うつくしい青い海。遠くに近代的な建屋。ことばの思い出がないわたしには昔の思いはわからない。ただ思う、どの景色にも分岐が潜んでいる。