さて、日記記載順が前後してますが、東京二日目は結城座へ。
結城座観るの10年ぶりくらい。『昭和怪盗伝(けいはくピカレスク)』と『アンチェイン・マイ・ハート』を観てますな、10年以上経つのか。
糸操り人形と俳優が共演する結城座スタイル、好きです。
叩き場訪問はしましたが、芝居の内容的なことはなんも前情報なしで観劇。
席は後ろから2列目中央下手通路側、はまじボックスの斜め前くらい。全体を見渡せる席ですね。
イントロダクションの、小さい人を操る人を操る人…の後ろ姿で、もう、胸詰まりまして。あああ、もう。
今年の月は大きゅうございました。
その昔、あれは25年くらい前か、「天野さんの芝居の役者はみんな人形みたいだ」とI飼君が仰ってました、その時はぜんぜん良い意味ではなかったんだけど、「人形」というキーワードで思いだす。天野さんと人形芝居ってすごく親和性が高いと思うのね。人形になれるものならなりたい。
生きていますことはこんなにも、嬉しく、せつなく、小さいものですのに。
小村雪岱だったかな、生身の人間よりも、能面がこくりと首をかしげた時の表情の動きなどのほうがずっと胸に迫ると書いていたのは。
その感じはわかります。
いや、生身の役者もうつくしいもんですし勿論好きですけれども、その生身の役者が目を剥いて表情を作っている姿より、それこそ、ダンスのポジション移動の時なんかに見せる無表情、頭に糸ででも吊られたような静かさに灯りが差しこんだりするのが実に印象的というようなことがありまして。
こうゆうこと言ってるから「マニアックな…」とか呆れられる、まあ良いではないですか。
なんでしょうね、ある種の感慨をもたらす人形の力みたいなのがあるんだけどそれはどういうものでどう説明したらいいのやら。
あと、「古来演劇とは人形のものであった」と書いていたのは誰だったかしら。
太陽劇団のラストの人形を掬いあげるシーンも相当に印象的でした、人形といえば未だに思いだす。
あの場合は、本編がエア文楽…じゃなかった、人間文楽様式だったんで、人形の意味が濃かったこともあり。