2010年11月7日日曜日

りすんおぼえつづき

中日夕刊。


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今回は、珍しく、安住さんとほぼ同意見ですわ。


 


りすん観たときの抜けなさについて引き続き考えている。


抜けない。スポンといかない。何も悪くないのに。


結局思い当たるのは「ファンのよくどおしさ」なんだった、ファンって自分のことだけど、天野さんの芝居が好きでずっと観てきてて、手法にすっかり慣れきってて「もっと目新しいことを」って欲望しちゃうんだよなどうしても。


でもそのせいだけでもない。


りすんはすごく真面目な演劇化だと思うけど原作を尊重しすぎて遠慮してるようにも思えた。


ヤジキタのふりだしの畳なんか確かにしりあがりさんのネタでありつつ天野さんの芝居になってて、ループもメタも団子先生の自家薬籠中の手法でやり口は解ってるのにドキドキした、ヤジキタの場合はあの原作をどうやって二人芝居にするのかってところで大胆に手が入るのでそれが良かったのかもしれない。


 


原作小説だと、隣の聴者のドナー候補者がお隣さんとは結局不適合で、主人公と型が一致して骨髄提供するという運びがあるけどこのへん芝居では省略しましたね?その話題ないよね?


聴かれ書かれている主人公がシノプシスとクォーテーションのオモテに出るのには聴者の消失、死が必然的なわけで、でも演劇では聴衆Audienceを消すわけにも殺すわけにもいきませんし、そうするとやっぱり朝子を殺してソトに出すよりしようがないのかなあ、とエンゲキの限界を思ったり。


アクティングエリアと客席の堺に出演者がずらりと並んでエンゲキの結界を作ってるようで。客席は絶対安全圏なのでおびやかされない。


その絶対安全圏の感触とリアルなエンゲキにおけるリアルでしょってのが繋がるんだよなー。なんだエンゲキじゃあしょうがないやー。


無いものねだりなんだけどさ。


 


話変わりますけど


「すわ」って日常口語で使いませんね。


すわ一大事、とか、すわ火事か!とかの「すわ」。


新聞の見出しではまだ見ます。