2009年2月13日金曜日

もう寝ちゃった?

幾度目かの「今度こそほんとにおやすみなさい」の1分後に「…ねえ、まだ起きてる?」って語りかける子どもでした。いまだに全然変わっていません。


もう終わったことなのに話し続けてしまいます。


 


いいや、目が覚めちゃったからもうすこし喋っていよう。


 


早川司寿乃(しーちゃん)から観劇の翌日電話きた。


「カシワさんが原作に"フレア"って名前をつけたときの気持ちっていうのはどうなったの?」


すんっげー捉えづらくかつ答えがたい質問をしなさることだ。


終演後にも原作について訊かれていた。


細かいことだけどわたしは自分では原案と言っている(チラシ表記も)。


「フレア」はまとまった一つの作品じゃない、断片のアツマリだと思う。それで「原案」と呼ぶ。




わたしの世界を芝居で表現したかったわけじゃなく、虎馬鯨の新作が見たかったのがはじめで、いろいろもろもろ経て、虎馬鯨×天野天街の次回作が観たいというところに落ち着く。


"フレア"って名前をつけたときの気持ちは、試薬入れるほどのものじゃないのかな。のかなって、推量。


シンプルで単純で赤にも青にも変化するものを投下した感じ。作品にタイトルをつけるって感じじゃなかったと思う。最初はいくつかの断片を書き散らすつもりだったので、ファイル名は「フレア1」になっている。サンプル試験管みたいに。


そうゆう気持ちが「どうなった」って言えば、化学変化を目の当たりにしておもろがってる、とかそんなんよ。


 


Fの音がいいなあ、と思った。なんとなく。なんとなくだけどFは女子っぽい。フローラ。フィメール。フリル。ふわふわ。ふる。ふえる。ふるえる。


Fの音がいいなとだけ思っているときに、天野さんと仮タイトルの話をしてて、ぽん、と口から「フレア、とか」と出てきた。それでフレアになった。


女の子の服飾の優雅な布地と、太陽の閃光、レンズの中のキラめく光片、全部が多重露光になっててぴったりだなと思った。


でもこれはむき出しの3音だ。虎馬鯨に何か足してくださいと言った。「ライトフレア」になった。軽く明るく、二重画像の輪郭がよりクッキリした。ドキドキした。


 


名前をつけることは魔法をかけることだとCWニコルのおっさんが書いてたそうだ。そう思う。


 


人物の名前はだいたい原案のまま使われた。


名前をつけるのはむずかしい。


名前に意味がこもるから。


フレアと付けたのと一緒で、後から後からもっともらしい理由が湧いてくる。


名前だけでもう「ネタ」や「イメージ」なのです。たとえばこんな。


 


一子・二三子は単純に数、女1とか女2とかの記号とおんなじ発想。だったのだけど、


海南島の神話に出てくる島で最初のきょうだいの名字が「ワン(王)」と「フー(巫)」で、それになぞらえてワン=ONE=かずちゃん、フー=ふーちゃん、とか、


『老子』に出てくる世界のはじまり「道は一を生じ、一は二を生じ、二は三を生じ、三は万物を生ず」であるとか、いろいろ頭の中で意味づけたな。


 


おかあさんじゃない方が零子なのは、モノガタリ語る人だから稗田阿礼(ヒエダノアレ・古事記の語り部)にあやかってレイコにした。


おかあさんの初子は原初の初、エジプトの神殿の碑文にある「彼女は生まれることなくして生む」という一文からきたイメージ。


初ははじめてのハツだけどウブでもある、そしてウブは産むに通じる。


 


乙彦は古事記・日本書紀に出てくる楽器の神様の名前をもじった。


この神様には笛の製造にまつわる土俗神話が各地にあるそうな。


古事記では天界から地上を視察に行って帰らなかったために殺される。


ちなみに「彦」には「姫」が対になるはずなのでどこかにオトヒメがいるはずだけどこれは書きはぐった。


 


アゲハ・クレハは上端・暮端。ようは東と西。


クレハという名前は呉服とも書く。機織りの女神でクレハトリとアヤハトリという姉妹がいたそうで、それにもひっかけた。布地とか衣服とか羽織物とかにまつわるイメージ。


 


十郎は「曾我兄弟」の曾我十郎祐成から取った。


曾我十郎は能「夜討曾我」で仇打ちに行った先で討ち死にするのだが、それを闇の中でたいまつ掲げた弟五郎時致が捜す場面がとてつも良いので、闇に消えて光に映らない死者のイメージで名前をいただいた。


 


戸越ヒロと仁科磯子、はヒトゴロシとシニソコナイのアナグラム。


未成年の重大犯罪者が少年院から出てくるとき、その将来を慮って法務官が新しい姓名をつけることがある。


その法務官が風刺だかの利いた人で「あっお前ヒトゴロシだからトゴシヒロな」って名付けてたらやだろうなあ、とか思いついて命名。刑を終えても犯罪者は犯罪者。


「ヒロ」は海の水深を測る単位「尋(ひろ)」にもかけた。尋と磯子。二人して海っぱたの名前なのです。


シニソコナイは死に損なっていつっまででも生き続ける、八百比丘尼のイメージ。


八百比丘尼は若狭の浜辺をうろついていたというから、やっぱり海っぱたから離れられない。


 


ヨタはヨタ者のヨタ、琉球で占いにハマッてる人をユタ買いという、ユタ買いのヨタ。


 


フレアに出てくる名前と由来はこんなとこ。


「ライトフレア」っていうお芝居になるにあたって変えたりバラしたり新しい名前が作られたり属性がシャッフルされたり。トランプみたいに。


 


ふーちゃんのふーは巫(ふ)にかかっている。


「巫」の字形がガクブチ舞台の真ん中開きの幕(カーテン)を左右から女の子が引こうとしてるシルエットみたい、というすっごいたあいない象形ダジャレが頭にあって。


自分の描いたイメージなんかどうだっていいですよ、と言いながら、今回の美術の白いカーテンに感動し、それを左右に引くゆきこさんとペコちゃんにまた感動したんだった。