駅まで出かけるたんびに「この後東京ですか?」って訊くのそろそろやめてください、というか次は大阪ですよ決まってるじゃないですか維新派ですよ。
あっ大阪行きの極安バスは片道180円でした、往復で360円だそうです。「1km1円」という人気企画なんだそう。同僚によると「大阪くらいまでなら苦にならない」そうです。
地下鉄初乗りより大阪行きの運賃のほうが安いという衝撃。価格破壊にもほどがある。
チケット予約の狙い目は朝5時ですよ。
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先日の野鳩の。
イヨネスコの「授業」を内田百閒テイストで、ていう感じの芝居でした。
反復する不毛なレッスンと全体の円環構造ってのが「授業」を思わせたんだな。
あと会場の古い民家で襖を取り外したお座敷で観客一同がおんなじ方向向いてるのが、法事みたいだなーとも思う。
こういう劇場以外の民家とか文化財とかで演劇をやるとき、「余計なこと」をやるとすごくひっかかる、悪い例を昔何回か見たとこがある。
どういうのが余計って、観た中で具体的に挙げると、全体はお座敷和風芝居なのに見せ場は日本庭園に投光した中でレオタードで踊り狂うのとか(笑い所ではなく)、せっかく明治期の邸宅内で時代がかった衣裳なのに給仕とか片付けとかの所作が全部パントマイムなのとか、演劇的創意工夫がそれ余計だなーって感じで浮いてた。「会場の力に頼ってる」って言われたくなくてなんかやっちゃうのかなあと当時思った。逆に、同じ時期に観た古民家芝居で感心したのは、ラストは観客も巻き込んで大茶会(だいさのえ)になって締めた草喰の会の芝居、作演が演劇畑の人ではないのが興味深かった。
さておき。
今回の野鳩のはいろいろ(演劇を)やってるのに余計なことがなくて、ああセンスだな、と思う。借景の妙。
昔、おフランスの外交官詩人が「劇(ドラマ)は何事かの到来、能は何者かの到来」と端的に言い表わしました。
その二択で言うなら今回の芝居も「何者かの訪れ」の方ですね、何かコトが起こるわけではない。
舞台が劇場ではなく民家の居室だったので「何者たちかが訪れて去る」形がよりくっきりするんだな、劇場の舞台で出てハケるのと玄関から入って去るのとは、同じことをやってもちょっと「お約束度」が違う。家の主と来訪者。夢見る主体と夢見られる者。
適度でちょうどよい芝居だなあと思う。上演時間も長すぎず短すぎず。
適度に不可解で。不可解は深まりもせず解決もせず。
適度な距離感。適度な温度。適度なテンポ。
そのちょうどよさ故に私はすみやかに忘れる、1つ2つのパーツのことと、あとは会場の印象と部屋のしつらえを思い出すくらいで内容は思い出せなくなるだろうな、と思った。
「あの民家でやったやつ」「あーあれ雰囲気良かったよねー」てな感じだ。
タイトル「自然消滅物語」がそんな読後感(観後感?)、観終わった後の物語の消滅も予告しているのなら、見事だと思った。
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しかしまあ、「何もしない」のではなく「何も余分なことをしない」ことの難しさよ。芝居に限らず。