2011年9月13日火曜日

時事に思う

なんていうんですかねえ。


 


こう、もしかしたら、こんな国家の大難の時の経済産業とか復興担当とか、仕事の量も質も前代未聞じゃないかってくらいの大任を、おやりになりたくないのではないか、


でも内々で打診や指名された時に辞退するとエラい人から「俺のメンツを潰すのか」とか「大臣をやる気もないのに議員になるな」とかオコられそうだからとりあえず受諾しといて、早々に失言して引責辞任しちゃおうという密かな流れがあるんじゃなかろうか。


と妄想してしまうほどに、こんな時に重要なポストの人がしょうもない失言で一瞬で辞めていきなさるよ。


大臣を辞めるほどの重過失発言なのかがまたもピンとこないですし。


そりゃ「放射能をうつしてやる」は小学生か!と思いましたけどね。防護服からうつるのは放射能じゃなくて放射性物質だろう!そこじゃない。こういうこと書いてるとまた不謹慎って怒られる。


いやまあ「死の町」はね、レトリックとしては普通にある表現だと思うんですよね、雑誌なんかの要避難地域ルポルタージュでも「ゴーストタウン」って表現されてますしね、人の気配がない住宅地を表すのにそういう表現は取り立てて酷いもんじゃないと思ったんだけど、うーん、政府の要職が言っちゃいかんってことですか。しかしそれは辞任するほどの失言なのか。これからの仕事内容で挽回するとか、そんな猶予も余裕もないくらい殺気立ってるんですかねえ。そうみたいですね。


トップでもなんでもクレームついたらすぐすげ替えっていやな風潮だよ、と思ってさ。たいへん今時らしいとも思う。


 


 


 


10年前、同時多発テロのすぐ4日後に新国立劇場で『堤防の上の鼓手』を観たっけ。フランスの劇団、太陽劇団(テアトロ・デュ・ソレイユ)の来日公演。


中世の東洋、長雨が続いて国土の真ん中を流れる大河の決壊が近い。じきに洪水が起こって世界が終わると神官が予言する。


雨で決壊する前に一方の堤を切れば王宮や神殿、貴族の街は守れるかもしれない。対岸の庶民の街を犠牲にして。


王様は決断ができない。大臣は画策する。計画を知って、民衆を守るために宮殿側の堤を決壊させようとする若者も出てくる。夜には堤防の見張り番が眠ってしまわないように鼓手たちが太鼓を打っている。


それぞれの立場の人間がそれぞれの立場で最善と思うこと、国家の救済のために行動しているのに、いつか恋人たちは殺し合い、鼓手たちも堤防の番人も射殺され、あげくすべてが洪水に呑まれてしまう。


非常に美しく、よく計算された舞台でした。でもやっぱ、ずいぶんな話だなあと思いましたよ。さすがフランス革命の国の人が書いた作品だとも思いました。そして人間であることの小ささも。


演出家はラストシーンに再生への祈りを込めた、と言ってたっけな。テロに震災に。世界は何度でも終わる。終わったあとに済うものがある。


小さいものの側としては、なんとか終わらせないでいてほしいとも思います。暮れない日も散らない花もないとは知っているけれど。