旧約聖書が書かれた古代ギリシア語の記述法は句点もなくスペース空けもなくだらだらと続くものだったので、英文に例えれば"GODISNOWHERE"を"GOD IS NOW HERE"(神はここにいる)と読むか"GOD IS NOWHERE"(神はどこにもいない)と読むかは、まったく読み手の解釈次第だ…という話がアーサー・ビナードの本に出てきた。
いい例文だと感心する、シンプルで完全に意味が真逆だ。
天野さんなら、"IAMNOWHERE"(アタシハイナイ/ココニイルヨ)かな、と思う。
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怒っているときは自分の正しさを疑わない。強気になれる。だから自分を守るために腹を立てる。
それが虚勢なのはうすうす自覚できる。正しい怒りではない。逆ギレに近い。とても勢いまかせにできない。
虚勢の内側にあるのはなんだろうなと考える。
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チャリ走行中。
車道のほぼ中央に子猫の轢死体を見つけてしまう。人通りは少ない。車通りは多い。
カーブのうえに坂道を登りきった極端に視界の悪い場所で、坂をあがってきた車やバイクが一台一台慌ててハンドルを切って死骸を避けている。
そのままにしておくのもしのびなくて、近くに売店があったので紙箱をもらって死骸を回収した。
今ここで車に轢かれたら「死ぬほど猫好き」「死んでも猫好き」の栄誉を賜ってしまう。焦る。
幸い、比較的きれいな状態だったが素手では触れなかった。
目の焦点ずらして「ごめん!無理!」と声あげながらチリトリの要領で手早く箱に収める。
なんで死んでるってだけでこんな触れなくなっちゃうんだろう。怖いのと気の毒なのと吐き気で涙ぐんだ。
その様子を歩道から見ていた売店のおばちゃん達が「じゃ、これもあげるから」と言って紐を差し出した。
「自転車の荷台に載せてもってけ」と。
おばちゃんらの厚意に謝して(反語的用法)、涙目で猫の死骸を搭載して職安へ向かった。
とんだ誕生日プレゼントだ。
GODISNOWHERE
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夜中、胃が痛くって寒くって気が晴れないで死んでた子猫思い出して、なんの脈略もなく、ああ、見捨てられるのが怖いんだ、と思い至る。
嫌いな人に見捨てられたって屁でもない。
大事なものみたいに扱って「一緒にいよう、そばにいてほしい」って言った同じ人が冷たく「まだそこにいるのかよ」って言う、その怖さ、
面白いことやろう、何かがやれそうだねって言った人が「なんだ結局使えないじゃん」って言い放つ怖さ。
経験上きっとまたそうなるという怖さに身構える。
いつでも威嚇体勢に入れる。防衛の攻撃。
まだ破綻してないうちから重々に用心深い。キレられてないうちから逆ギレの準備ができている。
虚勢の正体。
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また、いろんなことが突然動きだした。
こんな巡り合わせでことが進むのもある意味面白い。
ココニイルもドコニモイナイも、ただの視差で決定的な違いはない気さえする。
今ここにいる。