2018年4月25日水曜日

人形の情景

シューマンの「見知らぬ国々と人々」が好きだ。「子供の情景」第1曲。
タイトルについて「見知らぬ国々と人々」と覚えていたけど、検索すると「見知らぬ国」だったり「見知らぬ国と人々について」だったり「異国から」だったりする、「国」の部分は複数形じゃなかったのかと原題を調べると"Von fremden Ländern und Menschen"となっていて(Ländern=Landの複数形)、「見知らぬ国々と人々について」がほぼ直訳になるようだ。まあ、ただ、「国々」に続けて「人々」では日本語としてくどくはある。

原題について検索する中で北陸先端科学技術大学院大学という何回書いても書き間違えそうな名前の国立大学の先生のブログが出てきた、以下引用

子どもの情景の第一曲は原題が Von fremden Landern und Menchen であり、「見知らぬ国と人々」と訳されることが多い。今までタイトルについて考えたことがなかったが、題を見直してみて、前置詞’von’の意味が訳語から抜け落ちしていることに気づいた。「見知らぬ国と人々」と訳すると、あたかも「見知らぬ国と人々」が主題であるかのように聞こえる。つまり演奏では「見知らぬ国と人々」を表現することが目標となる。しかしそれに違和感を感じる。別訳で「異国から」というものを発見したがこちらの方が本意に近いのではないか。

これは勝手な解釈であるが最後の第13曲は Der Dichter spricht (「詩人は語る」)と題されている。シューマンは循環形式にこだわっていたからそれに倣ってこれらの題を(強引に)つなげると Der Dichter spricht von fremden Landern und Menchen となり、しっくりくる。’von’の意味はfrom(から)というよりはof(について)の方が適切だろう。これは「詩人は語る、異国について」または「詩人は語る、見知らぬ国と人々について」という訳になる。
http://www.jaist.ac.jp/~fuji/wp/?p=2920 「見知らぬ国と人々」

「詩人は語る、見知らぬ国と人々について」。
ふと高丘親王のことを思った。語る詩人は澁澤龍彥だったり劇中の薬子だったりする。
想いはめぐる、見知らぬ国々と人々について。

さて四半世紀前の高丘親王航海記野外劇も、ITOプロジェクトの前作『平太郎化物日記』も観ている、今回の企画を聞いた時から傑作にならないわけがない(二重否定)と確信を抱いて、しかしあんまりそれが決定事項なんでもういっそ観なくてもいいのでは(どうせ傑作なのはわかってるんだから、という変な安心感で)と一瞬思いつつ、東京の幕開けより半月遅れて伊丹公演観てきた。

いやあ、いろんなことが胸に去来して、「いろんなこと」という、詮子さんの声だったりだいこさんの横顔だったり、パゴダの上にすっくと立つ英子さんの勇姿だったり、頰被りした入馬券だったり超ロングロンドンブーツの桑山先生だったり、まあ、忘れがたい人々やその声が目の前のものと二重写しになって、ただでさえカレイドスコープ的な舞台であるのに脳内エフェクターがさらに乱反射させて、まあなんとも、かとも。年をとると涙もろくなるのはこういうことかしら。
もちろん別の作品であって、糸あやつり人形劇ならではの演出や技にびっくりしたり感心したり、ちいさいものたちに心吸い寄せられてスケール感が狂ってきたり。
ほどよくスケール感が失調したところで人形用のステージが取っ払われたのでもう完全に目の前の景色と記憶の景色の画郭が揃って脳内同ポジ状態、柱が白川公園に建つ塔のラインに見えて。その前で糸あやつり人形が自分の糸を手繰りだす、その掴むちいさな手指の動き、しかも顔は松本さんときた日には。
もうなにかなんだか泣くより仕方がありません。

そのちいささやひたむきさや、重力と張力とあと少しの磁力のきわきわのせめぎ合いや、回転や円環や球体や自転や公転や、もうなんだかすべてせつないくらいにいじらしく、こんな凄いものを目の当たりにできるのだからこの時代に生きてて良かったと思う、思った。
見知らぬ国々と人々について想い馳せる親王について想い馳せるのです。

前半ダイジェスト的な駆け足感を多少感じないでもなかったんだけど、蜜人で転調するし通してみるとあのテンポが正解なんだなと。
卵、シャボン玉、珠玉、満月、貘の糞、真珠、原作で描かれた丸いものの連なりが具象になって、そこに迦陵頻伽や鳥の舞が絡んで、卵が先かニワトリが先か、因果が円環して終わることがない、言葉で言うのは簡単だけどそれを具体の事物であやつったりからくったりして見せたのだからすさまじい。
四半世紀前のネタ出しして実現できなかったアイディアが必然みたいに嵌まってたりして、長い構想期間だったねえ、あ、そういうことじゃない。
曲も懐かしい曲のITO用アレンジバージョンですごく良かった。パタタ姫との再会のあと「ん、マランド楽団?……真珠採りのタンゴって、洒落か!」ってちょっと心でつっこんだ。
あとホイットニー兄弟を彷彿する有機幾何学的な映像が糸あやつり人形に合ってたなあ。
ざっと感想書くと、そんな。


2018年4月17日火曜日

続訂正とパンと

更に訂正情報、「ダンディパイセン」じゃなくて「ダンディ先輩」だそうです。
漢字が入るあたりちょっとかしこまっている、のかもしれない。

なんにせよ自分にない能力を遺憾なく発揮する人はうらやましい、というか、もうただただすげーよ、と思う。


ピーナッツバタークリーミーはパンに塗ってからトーストすると旨い、とロケットニュースの記事にあったので実践してみる。
油脂がとろけてナッツが香ばしくなって表面がクリームブリュレみたいになってこりゃいいや。熱々だとクリームがこぼれてくるのでちょい注意。
パン食が止まらない日々へ突入。食欲は満ちているのにもうちょっと食べたくなる罠。

あと食べると眠くなる罠。新弟子的食生活。

2018年4月15日日曜日

訂正

ありちゃんが呼びかけたのは「巖谷パイセン」ではなく「ダンディパイセン」とのことであった、ますますすげえよ。
その呼びかけに対して「私のことかな?」とダンディに応じなさったという巖谷氏もすげーよ。
見たかったすぎるやりとり、誰か動画撮ってないの動画。

高丘関係

ITOの高丘親王航海記、東京公演は好評のうちに終わったようでなによりでございます。
そら面白くなるより他にねーよ、と、平太郎や高丘親王野外劇を観てきた身としては思う、今回ちょっと東京行けなかったのだけどまだ伊丹公演も夏の飯田公演もあるので、チャンスはいくらでもあって有難い。

そいでアフタートークに巖谷國士氏との対談があったそうなんでそれは聞きたかったなと思った、ありちゃんがご本人に「巖谷パイセン」呼びしてたと聞いて吹く、ありちゃんにとって「パイセン」はオールマイティ最上級敬語。
後日田岡さんから「巖谷國士ってよく知らないんだけど、どういう人?」と訊かれる、わしわしに説明させると「日本の民話・お伽話をリライトして現在の形に纏めた明治の児童文学者・巖谷小波(いわや・さざなみ)のお孫さんで」と話が遠いよ。お祖父さんは日本の1人グリム兄弟。小波お伽話集には稲生物怪録を再話した「平太郎化物日記」も収録されているよ。

巖谷國士氏といえば野外で高丘をやった時、1992年晩秋ですか、当時別冊太陽で連載されてた宿エッセイにとてもステキな感想を書いてくれてたのが印象深いのだけど、案外田岡さんとかやってた当人は知らないのだな。中公文庫『日本の不思議な宿』桑名の宿の章に収められている、今出版情報見たら絶版で電子書籍にもなってないみたい。
この手の「絶版だけど電子化してない」音楽や書籍、早く電子データ販売してほしいです。
石丸だいこ大絶賛。


あと思うのは巖谷國士も澁澤龍彥も、「巌谷国士」「渋沢龍彦」と略字で書かせないオーラが出てる気がする、のは気のせいかしら。仏文学者の不思議な本字推し。

2018年4月5日木曜日

これが「インスタ映えしなさそうなピーナッツクリーム」である。
質実剛健。


中日劇場やメルヘンハウスや雁道栄市場や、老舗の閉店の報をたくさん聞いた3月末でしたが、
中日ビルの地下に寄ったららーめん亭が廃業していた。
中日ビル自体が来年の3月で取り壊しになるのでらーめん亭もそれまでかなあとは思っていましたが、まさかこの春で閉めるとは。油断していて最後の天津飯を食べ逃す。
わしわしが夜学生だった頃は天津飯1杯350円くらいでした。最後の方はさすがに500円超えてたのかな、それでも十分安いね。
大名古屋ビルヂング地下の喫茶かんてらもビルの建て替えを機に廃業しちゃったんだったなあ、個人店で古くからやってるとこは移転せずにそのままお店たたんじゃうのね。さみしい。


「シシド・カフカの癖に意外」
な、なんかdisられてる?


とある情報サイトを見ようとして。
スマホの広告が画面全面を覆ってコンテンツが見えない。
広告の右上のGoogle Adsインフォマークから「広告拒否:広告で画面が隠れるから」をクリック。
広告は消えたが結局コンテンツは見えない。

おい。



2018年4月4日水曜日

トライアンドドラえもん

ケイナー親子のホロスコープ、2018年04月03日天秤座。
「過去を完全にふり切れる人などいません」「かなり前のある出来事が――それは昨日のことのように思えますが――今もあなたの思考を支配し、あなたの想像力を制限し、あなたの前進を阻んでいる可能性があります」「あなたは過去の恐れに向き合い、それを克服する必要があります」
思い当たることがありすぎてもう逃げ逃げモードになって春眠してしまいたい、そんな春ですよ。
人は経験によって形作られていくのですよ。咬まれた犬は一生咬まれ犬なのですか。
犬はともかく人間ならば理性や悟性を持つ存在としてこのぐるぐる袋小路の被マウントポジションからの脱却があるはずなのですよ。

同じことを繰り返して別の結果が出ることを期待もするし、再現性のないエラーのために遠大な回り道をしていたりもする。明日はどっちだ。


昼間はもう梅雨前みたいな陽気です、今年もツバメが来ましたね。春なんか一瞬で過ぎていきます。

地元のスーパーやドラッグストアでフツーに売ってるインスタ映えしない雑なプラカップ入りのピーナッツクリームが旨かった、やばいめっちゃ太りそう(なイメージ)。


趣のある小学校廊下。

2018年4月3日火曜日

校庭日和

1月に校庭を見つけた時から期待を膨らませていた桜を見に阿下喜へ。
なんのかんのほぼ毎月通ってますね。
高丘親王公演直前のため、お誘い申し上げた関係各位は皆来られない4月初めでありました。
気温高くてうっすら曇りでいい風も吹いてなんだか理想的なお花見日和。
意外と他のお花見客もさほどなく、貸切に近い状況でのんびり桜の下でお弁当いただきました。
腰掛けやすい段差が高ポイント。

阿下喜の町では門付けにまわる托鉢僧の集団を見かけました。「門付け」って現物を初めて見たなあ。
後から地元の人のブログで知ったところによると、年に一度この季節に京都の臨済宗大徳寺の雲水さんたちがやってくるそうな。そら珍しい日に出くわしました。怪しい外人の偽托鉢僧と疑って悪かったですよ。
「おー、おー」とビブラートを効かせた僧テノールは実は「法」と言っているとのこと。

筆文字で大書きされたクソ駄洒落。「お休みさせていただきます」じゃねー。

初めて帰りも北勢線に乗りました(いつも丹生川に出て三岐線で帰っていた)。夕景の北勢線もいいだろうなあ、西日が暑いだろうけど。


咳はなかなか治らず、まあ風邪のときみたいにずっと咳き込んでいるわけではないけど間欠泉のようにいきなり咳き込み出して止まらなくなるやつ。アレルギー独特の咳ですね。咳と喉の違和感で吐きそうになるのがキツい。まもなく3週間目になるので吸入薬(アドエアかフルタイド)を出して貰う予定。

そんな4月だわ。