2011年5月27日金曜日

メランコリとサンクチュアリ

めんどくさい回路という迷路、とてもとてもバランスが悪いです、とてもとても。


 


日々の中で好きなことや好きなひとがただの逃げ場になっていくようで、逃げなきゃやっていけないようで、遠泳の息継ぎみたいな、息を継いで息を継いでなんとか泳ぎ続けていくんだけど、いつまで泳げばいいのよ、そして、いったい何度息継げばいいのよ、茫洋として岸の見えない辛気臭さに疲れてきて、もう息なんか継がない、ノーブレスで息尽きたとこで沈んでいい、逃げ場がなかったら生きてけないんならいっそ生きてけなくていい、という暴論に達し、気も荒みきったころ、友達と電話で話していてなにげに相手が「まあ五月病の時期よね」と言った言葉に、そうかいそうゆう季節かい、誰でもそうゆうもんなのかい、わたしも季節のせいにしてしまおう、と思い、季節なんだか疲れなんだか涙目で仕事して、休みの平日にゆっくり新聞読んでたらおーしまのエッセイが掲載されてた、おお地元文化人。


 


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逃げ場がある、そのことを存分に享受してもよいだろうか、わたしは家や家族や仕事を流されたわけでもないし、死にたくないのに死んでしまった人でもない、3.11以降の日本人の意識は自ずとそれ以前とは違うのであるなどとヒョーロンカの人がのたもうてもそりゃ東日本じゃリアルかも知れないけどここにいたら今ひとつピンとこない、(個人的には阪神の震災の方が意識に地層が出来ていると思う)、つまり、逃げるだけの資格を持っているんだろうか、と後ろめたいような気分は若干残しつつ、でもやっぱり逃げることにする。逃亡、ではなくて逃避。虚構で結構です。


 


生きていますことはこんなにもうれしく、せつなく、めんどくさい。


許容できるめんどくささを残して剥ぎ落としていくと最後にのうのうとわたしが残る。そうゆうもんかい。そうゆうもんなのかい。


 


時実新子ははずむ日に猫を抱くと詠みなさったが、わたしはたいがい泣くとき猫をぎゅうぎゅう抱く、猫の横っ腹に顔うずめてふーふー言っていると猫がとても迷惑そうな顔で見る。今日は福島の避難地域に一時帰宅した住民の様子をニュースでやっていて、家に残してきたという23歳の猫が無事生きていたのを見てよかったねえよかったねえと涙ぐみながら猫を引き寄せて困惑された。あたしゃハンケチがわりかい。そういうことじゃないのよ、そうじゃないのよねねむさん。