2019年6月19日水曜日

1001雑感

あんだけ毎日毎日レイワレイワ言ってたのに、役所の書類を「令和」に修正するときすごく新鮮な感じがした。そんな「新鮮」もすぐ慣れるんだけど。

新元号が発表された日にBBCは「令和」とは ”order and harmony” を意味すると報じた。政府の公式英訳では「令和」は ”beautiful harmony” だそうで、そらま「令夫人」「令息」の「令」だけどやっぱ第一義は「命令」「指令」の「令」だよねと思う。上の他にもBBCは丁寧に一文字ずつ字義を解説していて、「令」は "commands" "order" "auspicious" "good"、「和」は "harmony"、そして日本語では "peace" の意味で最もよく使われると書いている。和ヲ令ス ”Command to make peace”、それはそれで別に悪い訳じゃない。

「東亜永遠ノ平和ヲ確立シ以テ帝国ノ光栄ヲ保全セムコトヲ期ス」(米国及英国ニ対スル宣戦ノ件・昭和十六年・詔書一二月八日)
開戦の詔書、それでさえCommand to make peaceではあった。なにも戦争を始めるときに、戦闘で世界を恐慌状態にして他国民を皆殺しにしよう、とは言わない。死ね死ね団(『レインボーマン』)でさえ「日本軍の占領下で受けた虐待に復讐する」という大義を持っている。この戦いに勝ったら平和になると思って兵隊さんは戦地に行く。正義の為に敵を殺す。どの兵隊さんも、どの時代も。正義が正義を殺してどうするんですか、復讐の原理が何を生むんですか。

SNSその他で1001の感想を斜め読みした。「明確なストーリーは無い芝居なのだろう」と何人か書いてた。明確なストーリー、起承転結ではないと思うけど「ストーリーは無い」と言い切られるものなんか。天野さんのやり方はいろんな情報が重なりすぎ混ざりすぎて一見真っ黒になってる。そこからもつれをほどいて読み解く暗号も、更にもういちど重ね合わせて読む暗号も、限りなく入っているのだと思う。私がテントの中の薄明りで見てた物語はこんな話、というのをつらつら書いてく。

至上命令を帯びて今まさに自爆ボタンを押そうとする青年、そして出撃命令を待つ特攻の二等卒。中東と大東亜は掛け合わされて中東亜となり、和平実現という大義名分を背負った現代イスラムと大戦時日本軍の兵士らが二重写しの存在になる。スーサイドアタック=自爆テロ、神風特攻隊、自らの命を犠牲に敵への攻撃を仕掛ける兵士たち。命令は神(Allah,天皇)のcommandである、彼らは実行端末である。エリアス・カネッティはシーア派に属する暗殺団の暗殺命令を「二重の死刑判決」であると書いた。敵の死刑と自らの死刑。死刑囚の刑執行前に希望の食事が与えられるように「最後の願いごと」が彼らに尋ねられる。声の主は人間の瞬く間を世界とする存在だ。何度目の問いだったのかはわからない。なぜなら兵士らは叶った願いも覚えていない儚い脳持つ人の子だからだ。そんな彼らの為に、もう一度だけ「最後の願いごと」が聞き届けられる。こうして「最後の願いごと」は何度も叶えられ忘れられていつまでも終わることがない。繰り返される「おしまい」のはじまり、いくつものループ、いくつもの入れ子。マルチバースに拡張する話のフレームの外の話。ものがたり語るものがたり。語り手はどちらなのか。互いを映しあう鏡のように果てがない。ボルヘスが「アレフ」で語った無限の全体を列挙する行為に似ている。「わたしはあらゆる地点からアレフを見た。アレフのなかに地球を、そして地球のなかにアレフを、さらにこんどはアレフのなかに地球を見た」。中心へ向かうフレームと、同時に逆ベクトルに拡がるフレームの無限集合。それは舞台の額縁を超えて拡がる。登場人物はおりふし舞台の上から「客の目」を話題にし、たびたび客席の灯が点く。あなた方もまた操られ、見られているのではないか。あなた方もまた劇場というフレームの中に語られている存在ではないか。

遠くの景色。tele-vision。機械式送受像装置、テレビジョン開発者の一人、ウラジミール・ツヴォルキンが第二次大戦より前に日本人の自爆攻撃(特攻)に対抗する手段として遠隔操作の映像技術(tele-vision)を想定していたという映像技術開発史のエピソードがある。それは今や夢物語でもなんでもなく、広域監視システムを備えた無人武装航空機が実戦投入されている。MQ-9リーパーは1機につき368個のイメージセンサーで直径15㎞の範囲を毎秒15フレーム撮影するという「神の目」を持ち、最新の5G移動通信システムはその巨大データをリアルタイムで地上に届ける。機械仕掛けの神風。そして敵に向かう目もあればこちらに向かう目もある(たとえばオーウェルの描いたビッグ・ブラザーのような)。神は双面で双方向的である。神の目、神の声によってcommandは増幅され、同時多発的に超広域に国土中の端末へ届けられる。
神とは何か、正義とは何か、永遠の平和とは何か。
日本の戦後とはそれらをネリカエスところから始まったのです。然るにまだ結論は出ていないのです。

閑話。公演後に覗いた名古屋の本屋さんで坂口安吾の『天皇陛下にささぐる言葉』が再編発行されているのを見かけた、坂口安吾の著作はもうだいぶ前にパブリック・ドメインになっているはずなんで中身は青空文庫かKindle0円辺りにあると思うがわしわし紙の本派なんで購入。景文館書店刊。表題作は昭和天皇が戦災地を巡幸していた時期に書かれたもの。当時の史料を読むに行幸先では泣きながら手を合わせる人、ひれ伏して拝む人、そりゃもう熱狂的な騒ぎだったそうだけれどもそんな民衆に坂口安吾は冷ややかである。その中にちょっとおもしろいなと思う一文があった。
「天皇が人間ならば、もっと、つつましさがなければならぬ。天皇が我々と同じ混雑の電車で出勤する、それをふと国民が気がついて、サアサア、天皇、どうぞおかけ下さい、と席をすすめる。これだけの自然の尊敬が持続すればそれでよい。天皇が国民から受ける尊敬の在り方が、そのようなものとなるとき、日本は真に民主国となり、礼節正しく、人情あつい国となっている筈だ。」
面白いなと思ったのは、退位の直前だったと思うが、コンビニ前でたむろしてる高校生男子が「天皇が退位したらマジでゆっくりしてほしい」「からあげクン美味しいから食べてほしい」と談笑する姿がSNSで報告されて話題になった(その後どこだったかのメディアが当学生にインタビューしてた)のを思い出したからだ。自然の尊敬とか人間としての敬愛とかいうのを「からあげクン美味しいから食べてほしい」の男子高校生はなかなかに体現してるんじゃないかなと。感涙ながらひれ伏しもせずかといって筵旗も掲げず、もしかして日本は結構ほどよく民主国になってるんじゃないかしらん、今の若い人はほんと礼儀正しくてやさしい人が多いね。

さておき。
母ちゃんの前にはコーラスラインならぬちゃぶ台ラインがあると思って演っている。母はちゃぶ台ラインを超えない。これは結界だ。家の中であり身の内でありまぶたの裡の存在だろうと思う。母ちゃんの非戦主義は一貫してぶれない。ちゃぶ台が転がったのを「だいぶ前のこと」と言うのだから、その後に続く男衆の場面(ちゃぶ台が転がったのを「今だ」と言っている)よりだいぶ後の存在ということになる(男たちはちゃぶ台ラインの外側の存在である)。母のいる世界ではコトは終わっていて平和が訪れている。ただしそれは夢のように短い。最期の瞬きに見た夢のように。おそらくこれがこの男の願いごとだ。平安のうちになつかしい母にお会いできたあとは死が待っているばかりなのだ。

終わらない物語の中に何人もの語り手が現れる。囚われのシェヘラザードは「何度繰り返しても君はいなくなる」と苛立たし気に青年に詰め寄る。全ての悲劇は死によって終わると詩人バイロンは言ったが、では死によって終わる物語はすべて悲劇だろうか。すべてのものは死ぬ、すべてのものはいずれ消えてなくなる。すべては悲劇だろうか。多重の死刑判決、落ちたり跳んだり刎ねたりした首たち。入り組んだ悲劇の最後に現れるのは機械仕掛けの神(デウス・エクス・マキナ)と相場が決まっている。そのサードマンめくデウスもどきは「わたし」の最後の最後の願いごと、「こんなセカイ、さっさとキエちまえ」を叶えてすべてを消して去っていく。どくさいスイッチの後みたいに、つるんと平になって「わたし」が残る。悲劇もなにもかにも消えたゼロの地平。いいえ、「わたし」は残る。はじまりの前もおしまいの後も憶えていないわたしとわたしたちが残り続けて逢魔が時の遠い景色に溶けていく。
ものがたり語るものがたり、語り済み済まし。