2020年6月26日金曜日

虚構の巨構

悪疫が猖獗を極めて医療リソースが足らなくてパニック、みたいな設定ってフィクションでちょいちょいあったよなあ…とつらつら思い、萩尾望都『11人いる!』を思い出したりした。
異星人とふつーに交流して大学受験で宇宙船操縦する時代になってもウイルスには勝てない。ミクロの闘いは絶えないのだな。

あと未知の伝染病パニックといえば、映画『カサンドラ・クロス』とか。小学生の頃日曜洋画劇場でみて怖くて眠れなくなったやつ。
子供の頃は細部の設定は理解してなかったけど、あれ、「アメリカ軍が極秘でWHO内で研究していた細菌兵器が市井に漏れたので、隠蔽のために軍が感染者の一斉抹殺を図る」ていうすさまじい設定だったんだな。ベトナム戦争とかウォーターゲート事件とかでアメリカの評判が悪かった時代だろうか。よくアメリカとWHOからクレーム来なかったもんだ。今ならひよって架空の某国と某国際機関て設定になりそう。

山の上の隔離病院で患者が亡くなると遺体はそのまま病院の敷地内の焼き場で焼かれる、ていう描写が川端康成の短編に出てきた気がする、『掌の小説』あたりだったろうか。
山の上の隔離病院、といえば、高野文子の初期短編「春ノ波止場デウマレタ鳥ハ」にもそんなの出てきたっけ、チルチル役の笛子さんが隔離病院から退院してきた子で、陰で「病気がうつると怖いから笛子さんとは踊りたくないの」って言われてたっけな…。
ああ、今こそ「春ノ波止場デウマレタ鳥ハ」舞台化しましょう、少年の面影を宿した少女とその横顔を羨望の眼差しで見つめる主人公と、死の陰とマントの異人と、礼拝堂でのダンス稽古と先生のゲントウキと、万国旗はためく港と窓という窓に灯りをつけた瀟洒な角のホテルと。
うん、女学生の学芸会のお話を四十五十がやるのはきついですね。せめて20年前にやりたかったね。笛子さんて松宮なんだよな。

高野文子の「田辺のつる」に「ふとん」を重ねていろいろ混ぜこむと「マバタキノ棺」になる気がするよね。昔伊藤比呂美が「ふとん」は転形劇場だ、と言ってたっけ。漫画でしか表現できないやり方なのにどこか演劇的な感じを受けるんだな。田辺のつる婆さんの人生がドアの向こうで走馬灯のように展開していく一枚絵とか。あれをただドア一枚で表現するセンスに圧倒されたものです。

フィクションを思いつつ何かものがたり語ること考える。何か。